樋口一葉生誕地

更新日:2022年10月03日

「たけくらべ」の作者

樋口一葉生誕地(内幸町一丁目5)

(左)水色の着物を着ている樋口一葉を描いたイラスト(右)樋口一葉の白黒写真

 明治を代表する女流作家・樋口一葉(1872-96年)が生まれた場所が、千代田区内幸町だったと知る人は意外に少ないのではないでしょうか。1872年(明治5年)3月25日に、大和郡山藩の上屋敷だった東京府第二大区一小区内幸町一番屋敷の東京府庁内の長屋(現:内幸町一丁目5付近)で生まれました。本名は奈津、夏子とも書いています。一葉の父・則義は当時東京府小属という役人でした。現代風にいえば、一葉は都庁内の官舎で生まれた地方公務員の娘というイメージでしょうか。その後の一葉が住んだ場所を数えてみると、15ヶ所にものぼります。「たけくらべ」「にごりえ」「大つごもり」など「奇跡の14ヶ月」と言われた短い期間に数々の名作を残して、24歳と6ヶ月の生涯を閉じました。

番町麴町ゆかりの一葉

 一葉のゆかりの場所といえば、一般的に「本郷」というイメージが強いと思いますが、実は「番町・麴町」にもゆかりのある人でした。とくに中島歌子が主宰する歌塾「萩(はぎ)の舎(や)」で同門だった田辺花圃(かほ)、島田政子、中村禮子らが番町に住み、しかも師でもあり思慕していた作家・半井桃水(なからいとうすい)が住む家もあったことから、一葉の日記にもこの地域のことはたびたび登場します。
 姉弟子の田辺花圃(龍子)の書いた『薮(やぶ)の鶯(うぐいす)』が評判を得たことから、小説家をめざし、友人に紹介してもらった半井桃水に師事し小説を書くようになります。そして一葉が文壇にデビューを果たした時期、当時の文芸誌「文学界」の編集部が六番町(番町文人通りも参照)にあったことから、ここにも頻繁に訪れています。一葉にとって番町・麴町界隈は、親近感のある町のひとつでした。

恩師への恋

 麴町が一葉にとって心ときめく町であったのは、半井桃水が平河町二丁目2(現:平河町一丁目3)と同じく二丁目15(現:平河町一丁目6)に住んでいたことが大きいでしょう。
 現在では、作家としての半井桃水の名を知る人も多くはありませんが、当時は、尾崎紅葉と並ぶ新聞小説家として人気があった人でした。その彼の住まいを訪れた様子が、一葉の日記にいくたびか書き記されています。
 1882年(明治25年)2月4日、みぞれまじりの雪の日でした。前日に明日参りますという手紙を出すと、偶然にも桃水からも明日いらっしゃいという手紙が来ました。「かく迄も心合ふことのあやしさよと一笑す」と、一応冷静さを装って日記に記したものの、きっと気持ちは高ぶったに違いありません。
 桃水の家を訪れた日の帰り道、「ほり端通り九段の辺、吹(ふき)かくる雪におもてもむけがたくて、頭巾の上に肩かけすっぽりとかぶりて折ふし目斗(ばかり)さし出すもいとをかし」と書きつけた一葉の胸の鼓動が聞こえるようです。

関連画像

内幸町ホール前に設置された樋口一葉生誕地の案内板の写真

内幸町ホール前に建つ案内板