平河天満宮

更新日:2022年10月03日

逸話を残す、江戸三大天神の一つ

平河天満宮(平河町一丁目7-5)

平河天満宮と書かれた石碑とその奥の鳥居を写した写真

 太田道灌(おおたどうかん)によって1478年(文明10年)に創建された平河天満宮は十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の書作の中に登場する江戸の東都七福神、さらには湯島天満宮、亀戸天神社とともに江戸三大天神の一つにあげられています。

 二代将軍徳川秀忠により1607年(慶長12年)当地に奉還され、地名も平河町と名付けられました。徳川幕府、紀州、尾張の徳川家、井伊家等の祈願所であり、新年の賀礼に宮司が将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けています。御祭神は学問の神といわれている菅原道真(すがわらのみちざね)、相殿(あいどの)(主神を含めて複数の神が祀られた社殿)として誉田別命(ほんだわけのみこと)(八幡宮)、徳川家康(東照宮)を祀っています。十数度の火災、関東大震災、戦災で焼失が続きましたが、1969年(昭和44年)現在の本殿が再建されました。

 平河天満宮には逸話が多く残されています。まずは創建に際しての逸話です。江戸平河城城主太田道灌がある日、菅原道真の夢を見ました。その翌朝、菅原道真自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であると思い、江戸の守護神として城内の北梅林坂上に天満宮を建立したということです(「梅花無尽蔵」)。
 そして、盲目の国学者塙保己一(はなわほきいち)が、境内の版木屋で受けた差別的体験が、のちに「群書類従」(法律、政治、経済、文学、医学、風俗、遊芸、飲食などの文献を収める)編纂の精神的支えになったという逸話があります。編纂が完成して出版に当たっては、その版木屋を指定したということです。塙保己一の住まいの和学講習所跡は今の三番町24にあり、説明板が立っています。ヘレンケラーの母親が塙保己一を教育のお手本にしていたというのもよく知られています。
 さらには、江戸時代後期の医者・蘭学者である高野長英(たかのちょうえい)は、大観堂学塾がすぐ裏手にあったので参拝によく訪れていたという逸話も残っています。高野長英は蛮社の獄で投獄されるも脱獄し、逃亡中も国防・兵学文献の翻訳を続けた人物です。没後1898年(明治31年)、その功績が認められ正四位を追贈されています。平河天満宮に残された逸話の数々を思い浮かべながら訪れると、歴史のイメージが膨らんできます。

 また、狭い敷地に多くの文化財があるのも平河天満宮の特徴です。1844年(天保15年)建立・奉納された銅鳥居は、当区最古の鳥居で千代田区指定有形文化財であり、左右の台座に4体ずつ獅子の彫刻があるなど特徴的な意匠となっています。ほかにも千代田区指定有形民俗文化財として力石、百度石、石牛、狛犬、筆塚、そして菅原道真にちなんだ梅鉢の文様のある常夜燈があります。

境内の文化財

参道の左に赤い小さなお社と境内社のお稲荷さんの写真
社務所前の狛犬をアップで写した写真

狛犬

お稲荷さんの鳥居横にある奉納撫牛と書かれた案内板と撫で牛さんの写真

石牛