玄武館跡

更新日:2022年10月03日

文武両道

玄武館跡(神田東松下町23)

タイル張りの歩道脇に右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)」の石碑や説明板が建立されている写真

 玄武館は、千葉周作の道場跡です。千葉は16歳の時に千葉県松戸の浅利道場に入門しました。小野派一刀流を修めたのち江戸にのぼり、最も実用に適した組型として「北辰一刀流」を編み出しました。事理一致の稽古方法を用い、組太刀と竹刀剣術を合せて稽古することで、他の道場で10年かかる修業を5年で仕上げたといいます。当時、千葉周作の「玄武館」、桃井春蔵(もものいしゅんぞう)の「士学館」、斎藤弥九郎(さいとうやくろう)の「練兵館」は江戸の三大道場といわれました。

 北辰一刀流の指導は合理的でわかりやすく、等級を「初目録」「中目録免許」「大目録皆伝」の三段階に簡略化しているなどが特徴です。時代を先取りした感覚を持ち、武士に限らず、町人や商人に対しても教授し、その門弟3,000人ともいわれました。
 司馬遼太郎の著書『北斗の人』には、千葉家の家神妙見様すなわち北斗七星(北辰)、そして家伝の兵法は「北辰夢想流」であり、その「北辰」の二文字をとって命名したとあります。では、「玄武館」はと言うと、古代中国人は東西南北をそれぞれ象徴する想像上の神獣をつくり出しました。東は青竜、西は白虎、南は朱雀、北は玄武です。北辰の北という字を、周作は玄武であらわしたとあります。
 千葉周作は剣だけでなく学問も推奨し、隣接する「瑤池塾(ようちじゅく)」で学ぶことを勧め、瑤池塾の儒学者、東条一堂も「玄武館」で鍛錬することを門人に勧めました。千葉も東条も文武両道を若者たちに勧めていたことがわかります。

 ところで、千葉周作の弟である千葉定吉が京橋桶町に開いた道場は「桶町千葉(小千葉)」と呼ばれました。坂本龍馬が修行したのは千葉周作の弟である千葉定吉の道場でしたが、時折は玄武館のほうにも足を運んで稽古に励んだということです。北辰一刀流の門下には、坂本龍馬、清河八郎、山岡鉄舟などがいたと言われています。

 玄武館跡の敷地には、現在マンションが建っていますが、そばには玄武館を忍ぶ「右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)」の石碑が建立されています。右文とは学問を重んじることで、尚武とは武に励むことです。ここでは東条一堂の塾と千葉周作の玄武館のことを指します。