神田神保町

更新日:2022年10月03日

本と学生の街

神田神保町(神田神保町一丁目~三丁目)

 神田神保町の町名は、江戸時代現在のさくら通りにあった神保小路に由来します。さらに言えば、神保小路はこの道の南側に面してあった旗本の神保伯耆守の屋敷から名づけられたと考えられます。神保家は、元禄年間この地に950坪の敷地の使用を幕府から許可され、以来幕末まで屋敷を構えました。『幕府衰亡録』(東洋文庫所蔵)には「大目付神保伯耆守」の記述があるところをみると、かなり大身の旗本であったことがうかがえます。神保伯耆守の屋敷を古地図でみると、現在の有斐閣から山形屋紙店のあたりではないかと推測されます。

神保伯耆守の屋敷を表した古地図

 神田神保町が本の街になるのは明治初期頃です。当時書店は日本橋界隈に集中していましたが、江戸時代火除け地であった護持院河原や大名・旗本屋敷跡に開成学校、東京英語学校、学習院など多くの学校が建てられたことから、学生が多く集まり教科書を中心に本の需要が高まった結果、本屋街へと成長しました。

 法律書出版で有名な有斐閣は、1878年(明治10年)創業の古書店有史閣を前身として創業されました。創業者は忍藩の家臣であった井草釜太郎です。1881年創業の三省堂書店や1886年創業の冨山房、1890年創業の東京堂書店よりも古く、おそらく神保町に現存する書店・出版社の中ではもっとも古い創業ではないかと思われます。
 また、山形屋紙店は1880年(明治12年)創業で日本橋の山形屋からのれん分けしてできたということです。

 こうした歴史を見ると出版文化の中心が、活版印刷の普及とともに日本橋から神保町周辺に移ってきたことがうかがえます。

2列に並んだお店に、たくさんの人達で賑わっている神保町ブックフェスティバルの様子を写した写真

神保町ブックフェスティバルの様子