お玉が池

更新日:2022年10月03日

悲恋の伝説残る

お玉が池跡(岩本町2丁目5)

 かつて岩本町には、江戸時代の前から「お玉が池」という上野の不忍池よりはるかに大きな池があり、「桜が池」とも呼ばれていました。また、この辺りはかつて湿地帯で、池の周囲には柳や桜が咲き誇り、はるか向こうには江戸城が見えたそうです。

 『柳森神社略誌』には、「むかしは神田川も柳森いなりの南を流れ、お玉が池にも接近して此の辺は一面に沼地で雁が下りた処から雁淵と呼んだ。併し江戸の町の発展に依り、此の沼地も埋立て、寺地や宅地となった。今岩本町の辺なり。」と書かれています。お玉が池の西側には、江戸時代の初め頃まで、不忍池から南下する谷田川(やたがわ)が流れていましたが、水量が多く、下流はしばしば洪水に見舞われたため、「柳原堤(つつみ)」ができました。柳原堤を造ったことで、洪水はなくなりお玉が池は江戸時代に埋め立てられて消えてしまいました。

 池の名前はこの地にいたお玉の伝説に由来します。美人で評判のお玉という娘に、人柄も容姿も似たような男二人が思いを寄せ、悩んだお玉は桜が池に身を投げました。この話からこの池をお玉が池と呼ぶようになったとされます。池のあった場所の一角にはお玉の霊を慰めるため、お玉を祀る祠「繁栄お玉稲荷神社」があります。

 ところで、お玉が池跡の近くには歴史的にも有名な種痘所がありました。水天宮通りの岩本町3丁目の交差点にあたりにはお玉が池種痘所の記念碑があります。種痘所は蘭方医の伊東玄朴らが1858年(安政5年)この地に開設した西洋式医学所で、翌々年火災のために下谷和泉橋通り(現在の台東区内)に移転、さらに1861年(文久元年)には幕府の機関となって西洋医学所、医学所、などと改称し、大学東校および東京大学医学部の前身となりました。
 お玉が池は、江戸中期より幕末にかけて多くの漢学者や儒学者などが塾を開いた地で、江戸の学問の中心地としての場所でもありました。

自動販売機と建物の間に建つお玉稲荷神社の写真

現在の繁栄お玉稲荷神社

2名の男性が座っている女性の方を見ている「江戸名所図会」のイラスト

「於玉ヶ池の古事」(『江戸名所図会』巻一、個人蔵)