飯田町遺跡周辺の歴史

更新日:2022年10月03日

 江戸時代以降、この地域には日本橋川や神田川があり、近くには水道橋の名前の由来となった神田上水が流れていました。
 1620年(元和6年)、幕府は江戸城下の中心部を洪水から守るために、神田川の流路を船河原橋のあたりで東へ曲げて、駿河台を掘りぬく運河の「神田川」を切り開きました。この工事によって日比谷入江に注いでいた平川を堀留(現在の堀留橋)で神田川から切り離し、江戸城外堀としました。
 2000年(平成12年)に行われた飯田町遺跡の発掘調査では、讃岐高松藩上屋敷跡とともに、江戸時代初期の石垣や土留め板の護岸を持つ、幅10メートルの堀が発見されました。この堀は「正保年中江戸絵図」に見える平川の名残と考えられ、1657年(明暦3年)の明暦の大火直後に埋め立てられたことがわかりました。