海嶽楼跡

更新日:2022年10月03日

 1865年(慶応元年)、幕末の儒学者安井息軒は半蔵門外の旗本伊庭家の屋敷に居を構え、西に富嶽(富士山)を望み、東に金杉の海が見える所から、海嶽楼と名付けました。
 息軒は日向飫肥藩(現在の宮崎県)の藩士の子として生まれ、1819年(文政2年)に大坂に出て儒学者の篠崎小竹の弟子となりました。1824年(文政7年)江戸に出て昌平坂学問所に入り、儒学者の松崎慊堂に師事します。1839年(天保10年)、袋二番町(現在の千代田区一番町)に三計塾を開き、次世代を担う優れた人材を数多く輩出しました。1861年(文久元年)には、幕府に召し出されて儒官に任じられています。飫肥と東京にて門弟教育に力を注いだ息軒は、1876年(明治9年)東京で亡くなりました。
 なお海嶽楼は、1868年(明治元年)の火災によって残念ながら焼失してしまいました。