講武所跡

更新日:2022年10月03日

 1854年(嘉永7年)のペリー艦隊の来航を受けて、老中阿部正弘(あべまさひろ)は旗本・御家人の武術奨励のための調練場として講武場(のちに講武所と改名)を設置する計画を立てました。当初は、砲術調練場を築地(中央区)、筋違橋(すじかいばし)門外、四谷門外(新宿区)、越中島(えちゅうじま、江東区)に、騎戦調練場を神田橋門、一橋門外に建設する計画でしたが、完成したのは築地と越中島のみでした。
 1859年(安政6年)に築地の講武所が軍艦操練場となったことを受けて、小川町(現在の神田三崎町一、二丁目)に講武所が移転されました。用地には越後長岡藩(現在の新潟県)などの屋敷地約1万4,000坪が充てられました。
 講武所では剣術・槍術・砲術の他に柔術・弓術が行われ、特に砲術は西洋式砲術が導入されました。1866年(慶応2年)、講武所は旗本・御家人への砲術・士官教育を目的とした陸軍所に名称を改め、明治維新後には陸軍練兵所となりました。