内務省跡

更新日:2022年10月03日

道路沿いに設置された内務省跡の説明板の写真

場所:大手町一丁目1

 内務省は明治6年(1873年)、大久保利通(初代内務卿)の主導により設置された機関で、地方・警察・土木・宗教などの行政を管轄し、昭和8年(1933年)に霞が関へ移転するまでこの地にありました。初代の建物は木造2階建てで、鉄製の門は当時まだ珍しく人目を惹いたと言われています。江戸時代、この周辺には譜代大名の屋敷が置かれ、播磨姫路藩(現在の兵庫県)藩主酒井家の屋敷がありました。

 明治維新後、明治政府は内政を管轄する機関として内国事務局(後の民部省)、会計事務局(後の大蔵省)を設置しました。明治4年(1871年)に民部省が廃止されると大蔵省が内政を管轄するようになりますが、明治6年(1877年)、内務省が勧業・警察・地方の行政を管轄するため新たに設置されました。初代の内務卿は大久保利通が務めました。
 何度かにわたる組織の改正が行われ、県治・警保・土木・衛生・地理・社寺・会計などの局が省内に置かれました。
 大正時代には治安維持法の制定や特別高等警察(特高)の拡張を行いました。1923年(大正12年)の関東大震災後、内閣に設置された帝都復興院は、翌年に規模を縮小して内務省内に置かれ復興局となりました。昭和期には国民精神総動員運動の主導や大政翼賛会の指導を担当し、太平洋戦争後の昭和22年(1947年)、GHQにより廃止されました。
 初代の建物は木造2階建てで、『新撰東京名所図会』には「鉄門の珍しき頃には頗る人目を引て一の美観たりし」、と鉄製の門は当時まだ珍しく人目を惹いたと書かれています。北隣には大蔵省がありました。内務省および大蔵省の庁舎は関東大震災で被害を受け、霞が関に移転しました。

電線の間に入り口門がある昔の内務省が描かれたイラスト

内務省を写した絵葉書。
千代田区教育委員会蔵

昔の内務省の横に大蔵省がある周辺地図

「東京一目新図」に描かれた内務省とその周辺。
隣接して大蔵省が建っている。
千代田区教育委員会蔵

広大な敷地に建つ昔の大蔵省の2階建ての建物外観を写した写真

内務省に隣接して建っていた大蔵省。
千代田区教育委員会蔵