渡辺崋山誕生地

更新日:2022年10月03日

公園内の草むらに設置された渡辺崋山誕生地の説明板の写真

場所:隼町4 三宅坂小公園内

 渡辺崋山は1793年(寛政5年)にかつてこの場所にあった、田原藩(現在の愛知県)の上屋敷で生まれました。江戸時代後期の政治家として藩政改革や海防政策に業績を残す一方で、画家としても先駆的な功績を遺しました。崋山は名を定静(さだやす)、通称を登(のぼり)といいます。はじめは華山、のちに崋山と号しました。1809年(文化6年)、16歳の時に絵師の金子金陵に入門し、後に谷文晁(たにぶんちょう)に学んでいます。崋山の画風は西洋画法を取り入れたもので、真に迫った肖像画や写実的な花鳥画、軽妙な筆による風景画のスケッチなどを得意としました。18歳の時には、儒学者の佐藤一斎に師事し、蘭学を中心とする幅広い分野の学者で結成された「尚歯会(しょうしかい)」にも参加しました。
 1839年(天保10年)に執筆した『慎機論(しんきろん)』で幕府の対外政策を批判したため、蛮社(ばんしゃ)の獄で捕縛され、国許の田原での蟄居(ちっきょ)を命じられます。その2年後、48歳で自決し、生涯を閉じました。